新津油田
最終更新日:2012年6月1日
668(天智天皇7)年、「越国から燃土、燃水が献上された」と「日本書紀」に見られます。越国が新津であるかは不明ですが、明治時代の越後には頚城油田、西山油田、東山油田、新津油田が存在しました。新津油田は新潟県新潟市新津地区南東の丘陵地帯に分布する出油地帯の総称で、幅約6Km、延長16Kmの広い範囲にわたっていました。
この地域には、古くからの石油が地表ににじみ出ているところがあり、くそうず(草水)と呼ばれ、越後七不思議の一つにも数えられていました。近世には、石油採掘権が草水稼人に独占されていました。この代表的なものに柄目木(がらめき)の真柄家がありました。そしてその近くには、新津油田開基の油井(煮坪)が保存されています。
明治になるとこの稼人のなかからも近代的な石油事業に着手するものが現れました。金津村の草水稼人、庄屋中野家の貫一はその中の一人でした。中野貫一は1874(明治7)年に借区開坑願を政府に提出し、金津地区で開坑し、この地方の開発の端緒となりました。そして1875(明治8)年に石油精製の許可を申請しこの地方の原油を精製販売を始めました。その後、塩谷事件などの幾多の困難に直面しましたが、大正期には中野興業株式会社という日本石油、宝田石油に次ぐ、大石油会社に成長していくことになりました。
新津の原油は、「深黒色~深緑色、粘度が高く、比重は0.914~0.944で重質、炭素質分・硫黄化合物・酸性化合物が多く、パラフィン分が少なく、機械油原料に富んでいた」と当時の記録があります。明治初期にはランプの燃料としての利用がほとんどであり、灯油分の少ない新津油田は質が悪いとされ、1石(180リットル)が65銭くらいにしかならなかったようです。しかし、1894(明治27)年の日清戦争と1902(明治35)年の日露戦争は、一方で石油の需要を伸ばし、それによる好景気で石油産業を発展させることができました。とくに重油、機械油を製造するようになって、新津の石油も値上がりし、1902(明治35)年には1石1円20銭に上昇しました。
採油方法として手掘りが長く行われてましたが、1893(明治26)年頃から上総掘り(かずさぼり)が成功し、採油深度も120~330mまでに増大しました。1899(明治32)年に日本石油が綱式機械掘りを熊沢鉱場で始め、この工業化により採油は飛躍的に増大しました。1903(明治36)年頃の新津油田では、西山油田、東山油田をしのぐ出油をみて、会社・組合・個人を含めた操業者が100以上を数えるほどになりました。1908(明治41)年に年産110,000キロリットルという第一次のピークに達し、1910(明治43)年には中野会社は柄目木で306キロリットル/日の井戸を、宝田石油や日本石油は滝谷で180キロリットル/日、234キロリットル/日の自噴井戸を成功させました。
大正に入り東山油田、西山油田が枯渇の傾向を見せると、新津油田に開発が集中しました。小口鉱場の発見、日本石油のロータリー式削井機による小口第2層の開発が進み、1917(大正6)年には年産12万キロリットルで、産油量日本一となり、第二次の全盛時を迎えました。その後は減少し、平成8年で採掘が終了しました。
新津油田には、今でも石油櫓が残り石油王中野貫一の住宅や関連施設が当時の面影を偲ぶことができます。
なお、新津油田は平成19年(2007年)5月10日に「日本の地質百選」に認定されました。